誕生〜

我輩は1946年夏、伊勢町の『刃物や』の三男坊として誕生。

丸ポチャの赤ちゃんで、すぐ上の兄とは5歳程離れていたのでたいそう可愛がられていたそうだ (これは想像?)。冬になり風邪をひいたかどうかは定かでないが、高熱が続き医者は『扁桃腺』だろうと診断されたらしい。やがて熱は下がり一安心は此処まで・・何と両手両足がグッタリとして動かない、慌てた家族は医者に尋ねたが原因が分からない。

保健所でやっと病名が分かったらしい、脊髄性小児麻痺(別名・ポリオ・・運動神経が麻痺してい手足が動かない)当時流行っていたらしいが、何故我輩に入り込んだかは原因不明(我輩はどうも流行の先端を行っている様だ)。親に当時の事は聞きはしなかったが、此れからどうしよう 『親がいる間は良いけれど、親がいなくなったらこの子の面倒は』と先が不安で一杯だったと推察する。医者は『立ち膝』で動ければ良い方だと言っていたらしい。

 

親は何とか自立出来る様にと思い、国立病院のリハビリ科(当時その様な名称があったかどうか?)の先生で『マッサージ業』を開業している方が西堀に居ると聞いて母親は我輩を背負い毎日通った。

治療は身体に電流を通し(今で言う低周波とはチョット違う様な気がした)手足をマッサージする方法だった。数年通ったお陰で立って歩ける様になったらしい。マッサージの先生も非常に喜んでいたそうで、家族共々感謝・感謝であっただろう、残念ながら我輩の記憶は殆んど無い。

(今考えると、電気で運動神経を刺激したお陰か、また幼児の頃は治癒力も強く、血液の流れも良くなった為かなとも思う・・・我輩もマッサージの先生、家族に言いようの無い感謝・感謝で一杯)。

 

さて、此れからは我輩の記憶で話を進めて行こうと思う。自分では障害者の意識は全く無かった様な気がした、日常の生活・動作は普通にやっていたし、近所の子供達とも違和感なく遊んでいた、「鬼ごっこ」「缶けり」「めんこ」「駒廻し」「ビー球」など何も気にせずにやっていた。ただ野球は走れない為、キャッチボール程度だった。野球と言ってもボールはボロ布を丸く固めて周りを糸でクルクル巻きにして作った様な物、手袋を大きくして布の間に綿が詰めてあるグローブ、今では到底考えられない代物であった。家も二階があったが、自分で昇り降りしていた。当時、開智小学校は家の裏側にあったので、校庭へ良く遊びに行ったが、家の裏に小川が在り丸太が一本架かっていただけだったので、自分では渡れず遠回りして(伊勢町1丁目・2丁目・開智町を通って)校庭へ 遊びに行った為、疲れたのを覚えている。

近所の子供達は、松本幼稚園へ通園していたが少し遠かった為か、親が我輩一人ではまだ不安だったせいか幼稚園には行かなかった。(贅沢かもしれないが幼稚園の経験もしてみたかった様な気がする)。

母親は『自分で出来る事は、自分でやりなさい 、出来ない事は無いはづ』の精神をしっかりと植えつけてくれたお陰で障害者の意識は全く持っていなかった。

 

誕生 小学校 中学校 高校 宮使い 退職後 音楽の事