宮使い時代(1965〜

 

松本で初めての専門結婚式場に兄の関係で何とか就職する事が出来た。

お客様との打ち合わせ、料理・宴会部へのスケジュール表の発行等、全く経験の無い仕事で戸惑いもあったが結構楽しく仕事が出来た、コック・板前・ウエィターさんは特殊技能の持ち主なのでプライドがあり『素人に何がわかるか』って言う感じだった 為、中々溶け込む事が出来なかった。

ある人物(有識者らしい)の提言で(足の悪い者が表方でお客様と接している事は思わしく無い)宴会部へまわされた、ウエィターとして仕事が出来る訳でもないのにと思いながらも、宴会場のセッティ ング・掃除・他部署からの電話応対など足の悪い事を全く気にせず、出来る事は何でもやった。

周りの方々も暖かく見守ってくれたお陰で楽しく 毎日が過ごせた。「料理の事」「洋食のナイフ・フォークの並べ方」実践で色々覚え、飲食関係の仕事も合っているな、とも思い始めた。

 

この頃、何処にでも自由に行ける様にと、自動車運転免許を取る為に教習所を訪ねたが、障害者が乗る自動車が無いとの事で地元で免許を取る事は出来なかった。

色々調べた結果、東京に障害者を専門に教える教習所があり10日程合宿して1967年に免許を取る事が出来た、ただし360cc(軽自動車)まで、手動式運転装置(レバーを引いてアクセル・レバーを押してブレーキ)の限定付。スバル360の中古車を購入、行動範囲が広がり休みともなればドライブ三昧、給料の全てとは言わないが、かなりガソリン代に化けてしまった。

 

どうしても音楽の事が頭から離れずに結婚式場を円満退職し、長野の高級クラブでドラマーとして働くことが出来た、昼はアパート(6畳2部屋バス・トイレ・キッチン付 ・・結構贅沢)で練習、又はイベントで演奏、夜はクラブで演奏と昼夜が逆な生活が始まった。

ママさんも、ホステスさんも超美人揃いで毎日が楽しかったが、『商品(お店の女性)に手を出してはいけない』は常識中の常識でホステスさんには目もくれづに真面目に音楽を演っていた。

楽しい事は長くは続かない此処でアクシデント、アパートの風呂場で転倒していまい足首を骨折してしまったのだ(ジャッジャッジャーーン)、ママもバンマスも怪我が直るまで 待つと言ってくれたが、周りに迷惑を掛けるのが申し訳なくて音楽の世界を断念、アマチュアで好きな音楽を演ろうと心に決めた。

格好付ける高級クラブがびっこを曳くドラマーを違和感なく使ってくれたママ・バンマスに感謝しつつ、ほんの少しの間でも音楽で飯が食えた事は青春の1ページとして有意義な経験をさせて貰った。

 

さて実家に帰り怪我を治すことで静養、このままだと単なる居候・・・・・仕事を探さねば、しかし中々無い。

幸運にも以前の結婚式場でアルバイトとして働いてみないかと、お誘いがあり宴会部の仕事でまた楽しく有意義な毎日を過す事ができた。しかし時々『自分の店を持ちたい、自立したい』が脳裏に点灯し始めた、ピアノ・ドラムを置いて何時でもセッションが出来るジャズ喫茶 。

家賃・材料費・光熱費・生活費と計算し悩み悩み場所を探す、興味のある店舗があった、が先立つ資金も無いし、銀行から借金をと思いつつも銀行を納得させる決め手が無い、結局結論を出せなくて諦める様な事が2度3度と(結局は『思い切り』と『勇気』が無かったのだ・・・・あの頃は手も足も適度に動かせたのにと、後悔してもしきれない位、後悔している)。

車も軽自動車では満足出来なくなり再び東京へ、普通車に乗れるよう申請し排気量1200cc迄手動式ブレーキ装置付限定の車で3・4日間合宿練習し免許更新。

早速トヨトスプリンターを新車で購入、行動範囲もかなり広くなり休日には遠出をする事が頻繁に。

交差点に差し掛かると鉛筆を倒しその方向にと気ままにドライブ、疲れたらモーテルへ一人寂しく宿泊、チェックアウト時に『お客さん忘れ物は無いでしょうね?』と言われた不思議な話もある

(当時モーテル殺人事件がチョクチョクあったので管理人は一人客は不審に思っていたのだろう・・・・・

大爆笑)。

 

当地にも都市型ホテルができ、知人の紹介で面接を受けた。

我輩はフロントマンとして働きたかったが、以前『足の悪い者が表方でお客様と接している事は思わしく無い』の言葉が思い浮かび、「足が悪いんですけれど宜しいでしょうか」とお伺い、「気にしなくても良いよ」のご返事、一安心で無事就職する事が出来た。

1日3交代制、ナイト(夜勤)の場合は午後5時から午前10時まで、ナイト明けでも家に帰って寝る訳でもなく、同僚と珍しい食べ物があるといっては車で遠方まで食べに行ったり、早番の時は仲間と飲みに行ったりと、若さを大爆発していた。

タレント・プロレスラー・ミュージシャンと色々なお客様が宿泊し違う世界の人達と話が出来た、英語は得意ではなかったが、単語を並べ、身振り手振りで表現し何とか通じた時は、英語なんって何とかなるさと大きな勘違いをしていた(笑い話がある・・・外人のお客様で、モーニングコールを頼まれた、一生懸命・一生懸命考えて、翌朝得意げに英語でコールした{当然電話で・・当たり前か!}、通じたのか”サンキュウー”の返事、『どう致しまして』と日本語で電話を切った ・・・あ゛っ・・・バッカじゃねーの)、此処も結構楽しく仕事をする事ができた。

しかしまたアクシデント、ナイト明けトイレでつまずいて足を捻挫、仕事を休まなければならない状態になってしまった、だいぶ良くなったのでリハビリのため散歩をしていた時、もっと・もっと凄いアクシデント、転倒しそうになり手で身体を支えようとして左肘を脱臼骨折、救急車で通いなれている整形外科へ運ばれ結果は1ヶ月の入院。

ホテルに迷惑をかけるし、仕事にも多少行き詰まりがあったので退職。ここで『足の悪い者でも表方でお客様と接して仕事が出来た』ことは自分自身で「何でもできるゾ」と 益々自信を持った。

 

この頃「写植」の文字が目に付いた、写植(和文のタイプライターの様な機械で文字を打ち、文字を大きくしたり、斜めにしたりし印画紙に焼き付ける様な事をだったと思う)の勉強をし、知り合いの印刷会社へ写植のオペレータとして仕事をした、がどうしても馴染めづ挫折。二度・三度と仕事を変えると我慢する事が薄れてくる、良くないことは知りながらも『まだ他に自分に合った良い仕事が在る』と思い職探し。

 

そんな時、知り合いの「時計・貴金属店」に経理の仕事でとお誘いがあった、松商の商業科だったので簿記・珠算を実践できる、そろそろ落ち着いた仕事を思い就職。今まで字を綺麗に書く意識が余り無かったが、今回は綺麗に書くことを心がけなくてはいけなかったが、やはり下手な字は下手、しかし丁寧に書く事を心がけた。

此処でも周りの人達は障害者扱いではなく一人の人間として接して貰えたので、気持ち良く仕事が出来た。

この頃はまだ足腰がしっかりしていたので、階段の上り下りは手摺さえあればどんな処でも気にする事無く動けた。駅の階段・バスの高いステップ・店の二階に上がる急な階段、ヘッチャラ・ヘッチャラ。

店の旅行も皆と一緒に電車・バス等に乗って仙台・京都等と行けた事は今でも良い思いでとなっている。

 

自分一人で生活をと思い1軒屋(6畳2部屋・4畳半1部屋・ダイニングキッチン・バス・トイレ付・・一人住まいにはチョット広かったかも?)を借りた、隣に友人夫婦も居たので安心して暮らす事ができた。朝食はコーヒー程度、夕食は基本的には外食であったが、たまにはポタージュスープ・ハンバーグステーキ・サラダ(結婚式場の時、宴会部に居た事が大いに役立った)等を作って友達と酒盛りで大騒ぎなんかも。週1回の休日は布団干し・掃除・洗濯と午前中に片付けてしまい、午後はJAZZを聞きながら酒をと優雅・優雅の生活、自由気ままに楽しんでいた、『自分ひとりで結構出来るじゃん(またまた自信がついちゃった)』。・・友達 に、お前がこんなに綺麗にしているのはおかしい、誰か囲っていないか?・・と言われていたが自分でも不思議な位、全部自分でやっていた(たまには母親も来て掃除・洗濯をしてもらってはいたが)。

 

此処で『商品(お店の女性)に手を出してはいけない』とは裏腹に、人生の伴侶となる女性を見つけ結婚に至る。我輩は単なる足が悪い人間と思っていたが、彼女の両親は将来の事をかなり心配していて、すんなりとは結婚出来るものではなかった、説得を続け何とか了承してもらいゴール(感謝・感謝・感謝・有難う)。

車の免許証も1200cc限定では満足する事が出来ず、再び東京へ行き3・4日合宿練習しオートマチック車限定で免許更新『オートマチック車であればどんな普通車にも乗れるゾー』とやっとこさ運転免許証が取れたという感じだった。

 

思うところがあり「時計・貴金属店」を退職、職業安定所通いが始まった。

直ぐに見つかるだろうと甘い考えで行ったが窓口は高齢者・障害者専用。我輩は『足が悪いだけ』の意識だけであったが、現実は『障害者』、ボツボツ『我輩は障害者』の意識を持たなければ・・・・・ !。

やはり適当な仕事がなかなか見つからなかった、某金融機関で取りあえづ雇員でと言う事で就職(企業は従業員の何%かは障害者を採用しなくてはいけないと言う事で、運良く職に在りつけたかもしれない)。ここでは良い意味で障害者扱い(トイレは 洋式に変えてくれ、自家用車通勤はいけないが、自家用車通勤・駐車場まで用意してくれた・・・ 大企業はすごいなー)。

 

今まで全く経験の無いコンピューターの仕事、これは参った・参った、助かった事は松商時代に英文タイプライターの経験があったのでキーボード(文字列)は頭の中に残っていたのだ。コンピューターを動かすプログラムを作る仕事を与えられてしまった、1冊のマニュアル本を渡されただけで後は独学、一緒にやる相手がいたので互いに励まし合いながら試行錯誤で何とか初歩中の初歩を覚えた。

始めは担当上司の指示通りプログラムを作成していれば何とかなっていたが、あるシステム開発中に担当上司が転勤になり代わりの担当者が来ない、誰が主になってやるの、ま・ま・まさか我輩が?(雇員・雇員だゾ・・・給料だってそんなに貰っていない・・・何か有ったって責任なんか・・・もうハチャメチャ)。

しかしシステムを完成させなければならない、時間が無い、試行錯誤しながら毎日残業の日々、何とか間に合いシステムも稼動。無能な頭を一生懸命使い、何回か自律神経失調症になった、気分の良い時は”優”になり、チョット何かあると”鬱”になり会社を辞めたい・辞めたいと思う事が、しかし『いま自分は一人じゃない、女房も子供もいるんだ、此れから先如何するんだ』ここで辞めたらもう仕事は無いと自分に言い聞かせていた。

担当部署のシステム変更・追加・開発と気が付いてみれば我輩が先頭たって仕事をして行かなければならない状態になっていた。

『負けん気』の強い我輩は、現状を理解してもらう為に何度か上司に行員にして貰える様、嘆願したがなかなか取り合ってもらえなかった。十数年も経った頃やっと理解してくれる上司に出会って、何とか行員に成る事ができた。しかし中途採用だったので給料は思った程多くはなく、障害者基礎年金を受けていたお陰で生活は何とか成っていた。行員に成ってからは雇員時よりも気を入れて仕事ができ、充実感があった(ひょっとしたらこの仕事、足の悪い我輩にとって合っているのかなと思った)。

そんなこんなで50歳も数年た経った頃、歩く事が不安定になってきた為、転倒して怪我をする事が多くなってきた、椅子からの立ち上がりがきつくなってきた為に事務所の中だけでもと、車椅子を使う事にした、腕に力が余り無かったので電動 車椅子とも思ったが、距離は少ないし筋肉運動にもなるだろうと普通の車椅子にした、車椅子ばかりだと足が弱ってしまうのではと思い食堂・トイレまでは歩く事にしていた。またアクシデント 今回は自宅で転倒して肩の靭帯を痛めてしまった、普通(健常者と言えば良いかも知れないが、この言葉はどうしても使いたくない・・健常者って どんな人なんだ??)だったら三角巾で腕を吊っていれば仕事も出来たかもしれないが、我輩は肩が痛くて杖もつけない、車椅子の車輪も回せない、車の運転も出来ない、出来ないだらけで会社を休まなければならない状態になってしまった。

医者は2週間もすれば 良くなるだろうと言っていたが、歳も取っていたせいか中々直らずに結局1ヶ月以上掛かってしまった。

 

また怪我をして迷惑をかけるのも嫌だし、一緒にやってきた後輩にも仕事(コンピューター・システム)のノ ウハーはある程度引き継いだし、定年まで勤めなくても希望退職で退職金+何%かのプラスアルファーがある特別退職制度もあるし、と思い退職の文字が頭の中にチラチラと・・・・・・・、人事部の担当者に打診したら我輩も該当するらしい。

女房に相談・説得し退職届を提出・・・・・またまた大きな大きなアクシデント、『先日の話、申し訳ありません間違えました、該当しません、すみません』との事、特別退職制度に当たらない頭の中はパニック・怒り浸透『バッカキャロー、済みませんでは済みません(駄洒落じゃないぞ)』、人事部長に交渉、同情しているかの様な顔をしているが本心は規定は規定だよ・・・・と言いたげ、怒り収まらずに役員へ抗議文、結局は上手く交わされてしまった。

結果は『自己都合の退職』宮使いの悲しさよ、長い物に巻かれてしまったのだ。失業保険も『自己都合の退職』『定年退職』では待機期間にも差があり直ぐには失業保険が受けられない、ハローワークに今までの経緯を説明し、何とか理解してもらった(官は融通が利かないと思っていたが、民よりよっぽど話が判るヨ ・ほんと)。

そんなこんなで、最後の宮使いは残念ながら『最後良ければ、全て良し』にはならなかった 、、、何か空しさだけが残り、仕事をやり遂げた満足感は薄れてしまい、心に大きな・大きな空洞ができた。・・・(我輩がやってきた事は単に大きな大きな歯車の一齣でしか無かったのだー)。

 

それにしても良く仕事を変え・自由に過した宮使い時代であった・・・・・チャンチャン

 

誕生 小学校 中学校 高校 宮使い 退職後 音楽の事