1958年丸の内中学校に入学 |
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学校は城山の中腹に在り緑の屋根に鐘塔が在り三階建で当時は『モデルスクール』と言われていた、急な坂道があったが住まいが近くに在ったので行きは兄にスクーターで送ってもらった、帰りは松葉杖を両方に突いて歩いて帰った。昇降口から階段、教室へ行くまでもまた階段、時間があったので自分一人で行動、しかし月曜日の朝礼は教室から体育館へ移動しなければならず、時間がない為先生に背負ってもらい往復した。
特別教室(音楽・理科など)へはやはり時間がない為、友人に背負ってもらい移動(我輩は体重もあったが 同級生が協力してサポートしてくれた、級友の暖かい友情は感謝・感謝で一杯{それでもまだまだ障害者の意識は無かった・・・・今思えばおまえは“バカ”か?})。
その頃自転車で移動すれば多少遠くに自分で行けると思い、補助車を付け自転車を練習、何とか補助車をはづして乗れるようになった(左足は普通うに使っていたので、右足をペダルにベルトで括り付け両足で漕ぐ事が出来た、止まる時は常に左足を地につけ なければならず、重心をくずして右側に転ぶ事が多々あった)
ある時、下校のとき母親に自転車を持って来て貰い坂をスピードを出し下り、左カーブを曲がり切れずに転倒、頭を“イヤッ”というほど石にぶつけた。頭を強く打つと星が出ると言う話を聞いた、本当に星が幾つも出た!(その後遺症か今でも“おバカさん”なのは????)。クラブ活動は美術部に入り、デッサンとか写生をし絵の勉強をしていた(この時は父親の後を継いでデザイナーになろうと思っていた)。
1年生の夏、左足首と同様に右足首の固定手術をした(右足は足首・足指は運動神経が麻痺していた為動かす事は出来なかった)。今度は入院にも慣れていたせいか、大部屋で過ごした、周りは成人の人達で大人の話を沢山して頂きすっかり『早稲(耳年ま)』になってしまい、良い人生勉強をさせてもらった。
2年生の4月、父親が糖尿病が原因で他界した享年49歳(我輩が同じ年になった時、 つくづく親父は若くて死んだんだなと痛感した)。宮渕から蟻ケ崎へ家を建て引っ越した、学校への道のりは3倍位になったが登校は相変わらず兄貴に送って貰い、下校は松葉杖で歩いて帰った(当時は肩賭け鞄で教科書が沢山入っていて結構重かった)。道路はまだ舗装もしてなく石は出ているは、凸凹はイッパイあるはでかなり歩きづらかったが休憩をしながら家までたどり着いた(結構根性はあった)。
父親が死んでからは、絵からは段々遠ざかっていった。
兄がステレオ(ラジオとスピーカーとターンテーブルが一個の箱の中にある物・・・今の様なコンポとは月とスッポン)を持っていて映画音楽等を聞いていた関係か何気なく軽音楽に興味を持ち始めた。レコードやラジオを聴きながら菜箸でお菓子の箱を叩き”リズム”を取って音楽に合わせたのはこの頃から。
学校では昼休みに音楽室に行っては小太鼓を級友と一緒に叩いていた。体育の時間は見学が多かったが、階段の上り下りをして足を鍛えた。
修学旅行は身体も大きくなってしまっているし、小学校の旅行より行動範囲が広いし、級友との行動もチョット大変かなと言う事で断念。
中学3年生となると今度は頭の痛い進学が重点課題となってきた、勉強の方は『自分で出来る事は、自分でやりなさい、出来ない事は無いはづ』 の精神とは裏腹でまー何といいましょうか中の中位かな、普通高校は授業の度に教室を移動しなければならない為、普通高校は断念(本当は家からも近かったし深志高校へ行きたかった・・ウソウソ)。
特別授業以外は同じ教室で授業が受けられる高校ということで松商学園に決定、兄も松商学園卒だったので様子を聞くことが出来、何とかなるかなとは思ったが果たしてこの”ちんば”(差別用語になるのかな?)が入学できるかは神のみぞ知る。中学校の級友・先生方、口では簡単に言えない位お世話になった、けれども誰一人として障害者扱いではなく一人の人間と付き合ってくれて本当に有難う・・・感謝、感
謝、感謝。{現在も中学の同級生数人と月1回で飲み会を続けている、本当に友達ってイイナー・イイナー}そんなこんなで中学校も無事終了。
父親の想い出 |
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我輩は良く映画に連れて行ってもらった、まだ二階席は畳がひいてあって重い引き戸があった観る映画はチャンバラ映画が多かったと思う。家に帰ってからは馬に乗った鞍馬天狗、赤穂浪士の清水一角など絵を書いてくれた、人を描く時はまず骨格から描きその上に肉をつけ、そのうえに着物を被せる様に描けと教えてくれた。絵の事で教えて貰った事は余り無いがこの事は良く覚えている。
親父は結構ハイカラさんだった、コーヒーと酒をこよなく愛し、パイプ煙草をふかしていた記憶がある。正月元旦は天神(深志神社)へ初詣に行き帰りは、レストランでオムライスを食べた。またある時は生卵の入ったポタージュスープにトーストを漬け、レモンを絞った牡蠣フライをナイフ・フォークでと、当時子供なんかは中々食べられない物をレストランで食べさせてもらった(食い意地が張っていたか食べ物の事はよく覚えているなー?)。麻雀が好きで近所の旦那衆を集めては家庭麻雀をしていた、その時は必ず一杯をやりながら、母親もお酒を出したりと大忙し、我輩もよくその場所で観ていたので何気に麻雀を覚えてしまった。そのせいか一家中麻雀が出来兄弟親子でも良くやった。
兄弟喧嘩をしても我輩は怒られずに兄貴達が怒られた、その怒り方がまた凄い『この手がいけない腕を切るぞ、いいか・イイか』と兄貴の腕にカッターナイフを押し付け我輩に迫る、『やめて、やめてくれ』と泣いて頼む、何時もこのパターン。そんな親父であったが、我輩が友人の家からベーゴマを貰ってきた、何故か知らないが『意味もなく人から物を貰うもんじゃない、返して来い』とこっ酷く怒られた事が一回だけあった。
親父は似顔絵を良く描いていた、自身の似顔絵も鏡を見てはそっくりに書いていた、我輩はその似顔絵になぞり書きをしてしまい台無しにしてしまった、母親にこっ酷く怒られた。親父に謝ってもう一枚描いてもらえば良かったのに何で出来なかったのか、今さら後悔してもどうしようもないが、あの似顔絵は素晴らしい絵だった。
酒好きが高じて糖尿病になってしまった、医者は「ウィスキーなら適度に良いですよ」と言ったとの事で、日本酒ではなくウィスキーを好んで飲むようになったと母親は嘆いていたみたい。
宮渕に居た頃の寒い日、自転車で坂を上ってきて直ぐ風呂に入ったせいか、脳溢血で風呂場で倒れてしまった、入退院を繰り返したが糖尿病の合併症か最終的には心臓の3/4機能が働かなくなったらしく49歳で他界してしまった。何時も酸素吸入をしていたが最後の日は機嫌も良く、酸素をはずして食事もした、一安心という事で我輩も姉と一緒にいったん帰宅。 夕飯の豚カツを作っている最中に呼び出し電話で(当時は一家に一台電話は余り無かった)『危篤』、直ぐ病院へ行ったが間に合わなかった(のち当分豚カツは食べる気がしなかった)。
死の直前は今まで苦しんでいたのが嘘の様に穏やかになる時があるらしい、その日が丁度それだったんだ!
一番付き合いが短かった我輩(13年間の付き合い)が親父にそっくりだとよく言われる、こんなに嬉しい事は無い、誇りに思っている、ただ残念なのは親父と酒を酌み交わす事が出来なかった事。
誕生 | 小学校 | 中学校 | 高校 | 宮使い | 退職後 | 音楽の事 |