1961年松商学園に無事入学

我が家にも遂に自家用車が着た、”日野ルノー”フォルクスワーゲンを一回り小さくした様な車で学校への送り迎えを兄にしてもらった。入学時はコワーイ先輩の目を気にしながら校門を出入りしていた。入学の記念写真を桜咲く土手で撮影をした、土手の上り下りを今まで話をした事も無い級友がいやな顔もせづ背負ってくれた、その後彼は我輩の面倒を色々と見てくれて3年間不自由なく、楽しく学園生活を過ごす事が出 来た・ ・・・・・・

感謝、感謝、感謝。

 

松商と言えば野球・吹奏楽、憧れて入学してくる学生が沢山いる、我輩も吹奏楽部に入部をと思い入部希望を出した、「パートは何を?」・「小太鼓」・「行進出来るか?」・「出来ません」・「人数の少ないパートだから」・・ ・・・・・残念ながら自分で引き下がざるを得ない・・・「失礼します」で吹奏楽を諦めた。この時初めて『我輩の足が悪い事を悔しく思えた』が現実は現実と割り来る事は出来た。

“恒例の屋上で男女を問わずの応援練習”、“毎週月曜日の朝礼”は、校風委員がサボタージュしている者が居ないか教室を巡回していた、我輩は『足が悪いので』と言う事で見逃して貰っていた(この時は足の悪い事を逆に利用していた)。

何か部活をと思い目に付いたのが「タイプライター部」覗いてみると女の子ばっかり、ちゅうちょしたが中学の同級だった『チョット“ホ”の字になった女の子』が居たので即入部、我輩は英文タイプを習うことになった(これが後に人生を変える仕事に役立つとは思いもしなかった ・・・・何かひらめきがあったかも??)。

 

真面目に部活をやってはいたが、タイコの事は頭から離れる事は無かった、家では勉強もそこそこに暇さえあればレコード・ラジオに合わせては、ダンボール 箱のドラムセット(自作)で“ドンタンドンタン、ダダダダー”、でもこの頃はやっとスティックを買ってもらい菜箸からは卒業していた。

段ボールで作ったドラムセットもどき
高校文化祭での演奏、いがぐり頭のDrummer

楽器屋にもドラムセットなぞ置いてある店は無かったので、カタログをみては何時かはきっと我輩にもと夢見ていた。やっとその時が来た高3春だった貯めたお年玉で頭金を払い、後は月賦(当然家で出してもらう)で“グレイシー”と言うメーカーで5万円の高価な物だった。吹奏楽部も我輩の同窓生が最高学年になったので、チョクチョク顔を出してはスネア(小太鼓)の叩き方等を教えて貰ったり、 逆にリズムを教えたり、音楽談義をしたりと吹奏楽部の連中と仲良くなれた事は大変嬉しかった(松商へ来た甲斐があったと痛感した)。

最高学年になってしまえば怖い物は無い、自分でジャズバンドを作って学園祭に出演、初めて大勢の聴衆の前でかなり興奮して演ったと思うが気分良く出来た。この頃から家へ楽器を持って練習に来る族(やから)が集まり、土曜日の午後・日曜日1日中とドンチャン・ドンチャン・プープー・キャイーン・キャイーンと1組のバンドが出来、施設などに慰問に行ったり していた(たまたま英文タイプの検定試験があったが、バンド活動を優先していた) ・・・家族、近所の皆様には大変迷惑をお掛け致しました・・・・本当に申し訳ありませんでしたと共に、ご協力有難うございました。

 

大学の軽音楽部のコンサートが良く開かれていた、胸をときめかせながらドラマーばかり見て色々覚え、自分の物にしていった。特に早稲田大学のモダンジャズグループは目を見張る物があった、そうだ早稲田へ行ってジャズ研に入りジャズを勉強してプロになろうと密かに思っていた(我輩の様に身体に障害の在る者は就職が無い、ジャズなら差別無く自分の力で認められる様になるはずと・・・・今思えばとんでもない事を考えていた)。しかし現実は厳しいもので早稲田へ行く頭など到底無かったし、親も認めるはずは無かった。

 

高3の3学期には級友達は殆んど進路(大学・就職)が決まっていたが、我輩は就職を希望していたが障 害者の就職先は無かった、学校は家業を手伝えの方針であった様に思う。

 

自分の進路が決まらないまま楽しーーい、楽しーーい高校生活も ・・・・・・・”The End” !!!!

 

誕生 小学校 中学校 高校 宮使い 退職後 音楽の事