音楽の事(氏名の敬称は略させて頂きます)

中学2年の時、親父が逝った後、ソノシート(レコード盤の一種)で聴いた『茶色の小瓶』、タッタッタッター・タータッタタッタ、タッタッタ、タターン、チィーチャッカ・チィーチャッカのハイハットシンバルのレガートにしびれた、台所にあった菜箸で机を叩き、何度も何度も聞き返しソノシートの音楽に合わせて練習。・・・・・我輩の音楽人生が始まったのだ。他の人は、コルトレーン、マイルスデイビス、チャーリーパーカー、マックスローチ等と結構高尚な“ジンガイ(外国)”のミュージシャンから影響を受けて、“Jazz”を演リ出したと聞くが、我輩は日本人のミュージシャンの影響が大きかった。最初はアメリカンポップスから出発、「ダニー飯田とパラダイスキング」「尾藤イサオ+ジャッキー吉川とブルーコメッツ」「スマイリー小原 とスカイライナーズ」、TVで音楽番組を観ながら菜箸とダンボール箱で、一緒にセッション。

 

ダンボール箱一個では満足できず、ダンボール箱4個でスネア・タム・フロアタム・バスドラムを作り、固いボール紙でシンバルを2枚(カップ部はマヨネーズの蓋を使用)、ハイハットスタンドとペダルも木片・ゴムバンド等で、ドラムセットを作成。さすがにこの頃にはやっとスティック1組は買う事が出来たが、ワイヤーブラシまでは買う事ができずに団扇の紙をお湯につけてはがし、ブラシの代わりにしていた(結構ブラシらしい音はしていた)。

 

学校から帰れば勉強はそっちのけで、段ボールドラムセットで、

 

ドンチャドッドンチャ・ドンチャド・タカタカ・ドコドコ(ロック)

チンチッキ・チンチッキ・タッタドン(スィング)

シーシャッカ・シーシャッカ(ブラシ)

 

を練習、教則本も買っては見たが譜面に弱かったので、もっぱら耳からリズム・ヒィルイン等を覚えた。レコード・ラジオ・テレビを聞きながら練習した事は、瞬間・瞬間で反応できる良い訓練になった様に思う。

高校になってやっとドラムセット(グレイシー)を買う事ができた、かなり高価な物だったので練習終了後はヘッド(当時は牛皮だった為、張りっぱなしの場合皮が伸びきってしまう)を緩め、乾拭きして大切に扱っていた。

高3でJazzバンドを作り学園祭に何とか出演する事が出来た、吹奏楽部では軽音楽といっても精々ラテンか映画音楽、我がバンドは一応アドリブ(かなりいい加減ではあったが)を全員に演って貰い、我輩もロングドラムソロを演り大変気分が良かった事を覚えている。

 

社会人になって“パンプキンズ”と言うバンドを結成した。『スティールギター』『リードギター兼ボーカル』『サイドギター』『エレキベース』『パーカッション』『ドラム』とジャンルに拘らない音楽を演奏、慰問・コンサート・ダンスパーティーなど活動。中でも松本市民会館のコンサートはギャラリーが1000人を超え、開演前に会場の周りに人々が大勢待っていたのを見て、胸の高まりも最高潮、演奏も気分良く、楽しくできアマチュア・バンドをしては大成功を収めた(結構女の子にもキャーキャー言われた様な気がしたが・・・・幻か?)。この頃からボツボツ、アマチュア・ロック・バンドが増え始めた。しかし残念ながら“パンプキンズ”もメンバーの転勤等で2年程で解散。

 

次に結成したバンド“モダンスレイブス”は『アルトサックス』『トランペット』『トロンボーン』『フルート』『ギター』『ウッドベース』『ドラム』の編成で本格的なJazz.Band(といっておこう)、マイルス・キャノンボール・アートブレイキー・ハビーマン等の曲を見よう見まねで演った(我輩がコピーした曲も有った位だから・・・想像にお任せ?)、でもアマチュア・ジャズバンドは我々位しか無かったのである(練習場所は、土蔵造りの家を借り、毎週1回)、景気も良かった為か、パーティー・ビヤガーデン等の演奏があり、かなり良い小遣い稼ぎができた。

カワイ楽器店が開店し、ドラム教室の講師としてお誘いがあった、我輩流で良いとの事だったので、譜面に頼らず目・耳から覚える方法で教えていた。

教室は、コンサートホールで教えていた為、我がバンド“モダンスレイブス”の練習もこのホールを借りて出来た。この頃から新メンバーが加わってきてレベルが大分高くなった。ピアノ(以前プロのサックス吹き・ピアノは自己流ではあるが理論はバッチシ) の参加で、メンバーはかなり刺激を受け益々上達。この頃“ヤマハ・ライトミュージック・コンテスト”が年1回開催された、当然“モダンスレイブス”も出演(メンバーはアルトサックス・フルート・ギター・ピアノ・ベース・ドラム)、地区予選・県予選と突破(ジャズ部門はバンドが余り無い為か)、関東甲信越大会が東京の厚生年金ホールで開催、我々も出場、意気揚々と控え室へ他のグループの練習している音、余りにも素晴らしい、かなり尻込み(当たり前だろ・・彼らは東京の大学生バンドばっかり)。気を取り直し演奏、『みちゃんズ・ブルース(オリジナル)』『ケーリーブルー』、一応の評価はして頂いたが、演奏しただけで賞などは縁遠い・縁遠い。しかし大きな刺激を与えて貰い良い経験をした(しかし他のドラマーの腕前はこんなものかナー、なんて思ったりもしたが・・・・・・自惚れンナヨー・みっちゃん、ちゃんちゃん)。

“モダンスレイブス”もメンバー が入れ替わり、大学でビッグバンド・コンボJazzの経験が有るメンバーが集まり、地方でもレベルの高い音楽を演ることができたが、皆ポリシーを持っているのか中々纏まらずに残念ながら解散を決意。我輩はミュージシャンになるため長野へと旅立って行きましたとさ、モダンスレイブスの話は『これでおーしまい』。

 

20歳の頃にバンドとは別に、“ミュージック・エース”と言う音楽団体を松商の仲間と作った。

アマチュアのジャズバンド(モダンスレイブスも当然)・ロックバンド・フォークバンドと色んなグループを配下に置き、コンサート・ダンスパ ーティー・等を企画し、演奏する機会を作りアマチュア音楽を広げる努力をした。

プロの演奏も呼んではみたけれど、結構経費がかかり儲かるまではなかなか!。当時のGSブームでGSグループでのコンサート・ダンパなどを企画。

ジャスでは『宮澤昭(テナーサック)』『日野皓正(トランペット)』『佐藤允彦(ピアノ)』『寺川正興(ベース)』『ジョージ大塚(ドラム)』、のクインテットで企画(いま企画しても到底出来ない豪勢なメンバー)。

「ダニー飯田とパラダイスキング」時代のジョージ大塚氏からジャズっぽいドラマーでいいなー思っていた が、今回益々惚れ込んでしまった、プロモートしてくれたI氏にジョージ大塚氏を紹介してもらい、天にも昇るような気分(チョーー最高!)。

早速ジョージ大塚氏と同じドラムを購入(メーカーはネギドラム、サイズ⇒18incバスドラム・13incタムタム・14incフロアータム・14incスネア)、“松本のジョージ大塚”とばかりにジョージさんのプレイを研究し始めた。信州に“ジョージ大塚トリオ”が来る時は、必ず観に行き楽屋でドラムの話を聞いたり、ある時はスティックを頂いたり、教則本を贈ってもらったり、またあるときは『ヤマハのジョージ大塚・ドラム教室10周年記念コンサート』で突然ステージに呼ばれ祝辞をさせてもらったり(おいらみたいな者に何故・ 何故・・・・しかし嬉しかった)親しくして頂いた様な気がした(我輩ドラムを演っていて最高の時期であった)。

 

話はドラムプレイ関係に戻し、悔しくも長野から帰ってきた我輩は、自己のグループは作らず『ジプシーの如く』フリーであちらこちらのグループにお願いしては、 タイコを叩かせてもらいセッションを重ね、これが結構良い経験・勉強に成り、長野・上田・諏訪・岡谷・伊那・辰野と長野県中演奏しまくっていた。

初めてセッションする場合は、どんなプレイヤーか解らない、どの様に反応していこうか、自分の個性も表現したいし、出過ぎてもいけないし、遠慮し過ぎてもいけない、音に対し何時も耳を研ぎ澄ましていなければならない、この緊張感が“Jazz”なんだと思い込み演奏していた。

知り合いがプロミュージシャンを呼んでは、ミニ・コンサートを何回か開催した、我輩も1曲くらいは演奏させてもらった相手はプロミュージシャン、最初は緊張もしたが我輩はアマチュア、『かっこ良い事をやらなければ』なんて考えは棄て、自分の出来る事を必死になって演奏させてもらった。

演奏後そのグループのドラム屋さんに、『ケッコウヤルジャン』なんて言われりゃ『こりゃ-僕だって、もしかしたら』なんて夢見るぼーや!!!・・・人のタイコではバスドラが踏めない、バスドラを踏みたい時はリムショット&シンバルで対応、いつもの手癖が無く、新しい試みで演奏できたので自分で新たな奏法(大した事じゃないんだけどネ)を発見。(高橋知己氏・植松孝夫氏・大友義雄氏他プレイヤーの皆様本当に有難うございました) 。

地元キャバレーでもアルバイトをした、当時としては珍しく1週間に1度お客様に歌を歌わせる日があった(今で言う「カラオケ」じゃなくて「生オケ」)、演歌・演歌・演歌、たまに英語の歌、バンマスに「演歌スィングし過ぎだよ、ためて・ためて」と何回となくお小言、成る程、バラードも「ためなければいけない」とはチョト違うかもしれないが、なんとなく・・・・・解った。

また大町のキャバレーでは『蝋燭ショー』ヌードの身体に蝋をターラ・ターラ、身体をクネクネ、その時ドラムロールで盛り上げる、がしかし結構長時間ロールで手はコチコチ、少しも盛り上がらない 、踊り子さん我輩の顔を“ギッ”と睨みっぱなし・・・・内心ドキドキ(しらばっくれてロールでなくドラムソロでも演っていればよかったが、そんな勇気はなかった)。

 

我輩のドラム暦30周年メモリアル・コンサートとして、県内のアマチュア・ミュージシャンを一同に集めて音文ホールで大ジャムセッションを バンド仲間が企画して行ってくれた。

『金原昌平グループ』『吟ちゃんバンド』『ちいさがたバンド』『二木グループ』『ソーナイスオーケストラ』『柳原クインテット』 『小池淳子クワルテット』、他ミュージシャン、我輩が演リ出した時は数える位しかいなかったアマチュア・ジャズ・ミュージシャンが、なんとまー大勢育って、 しかも誰もが『うまい』我輩の胸に“’むらむら”と赤い火が立ち込めたのは言うまでもない、仲間に「感謝感激雨あられ」。打ち上げで美味しい酒を頂きブンキ(気分)最高、布団に入ったがコンサートの風景が走馬灯の様に巡り眠れられない一夜を、ぼつぼつ自己のグループが作りたくなっ たなーーーー!!

 

そして結成したグループが“アグレッション(aggression)”、

ピアノ・ベース・ドラム、我輩念願のピアノトリオ。

グループとしての練習は定期的にはやらない、ライブ会場へ入ってから曲決め・構成、何時も新鮮な気持でJazzを演るスタイルで活動し始めた。

相手のフレーズを聞きながら自分のタイコを如何にからめていくか、どうやって盛り上げていくか、そんな事を頭の片隅においてプレイ、互いの意識が一致した時のインタープレイは心地良いの一言。ドラムはバイテンで攻める、ベースは我関せずと同じテンポでランニング、ピアノはどっちに就こうかと考えながら我が道を行く、ある瞬間打ち合わせした訳でもないのに全員が“バイテン”になり盛り上がっていく、まさに我輩が演ろうとしていたピアノトリオであった。

 

定期的に『赤いピアノ』でライブを演り、バンドとしての存在感も高まってきて色々なイベントにも演奏する事が出来た、中でも信州博覧会(1993年7月・長野県アマチュアミュージックフェスティバルというお題目・・・・これは我輩の企画で2日間に渡りビッグバンド2グループ・コンボ5グループ出演)での演奏は、思い出深いステージであった。10年くらいは続いたが、我輩が演ろうとしていたピアノトリオにも限界がきはじめた(その場限りの音楽では、ぼつぼつネタ切れか?)誰からとも言わずに自然消滅。

 

自分の音楽に自信消失、今迄は『テクニックは如何だ』、『俺の感性は凄いだろう』、『俺は上手いんだ』等とチョット偉ぶった演奏をズーーーットしてきた様な気がした、まるっきし自己満足、ギャラリーに訴えるものがあったのかどうか、なかには『手足が不自由なのに良くドラムが叩けるね』と 不思議そうな顔をした人もいたけれど

マーそれはそれで我輩を評価してくれたんだな、しかし音楽は如何だったんだ、ドラマーとしては如何だったんだ・・・・?

 

2000年頃から車椅子でドラムを叩く事にした、今までの丸い椅子と違って身体がかなり安定した、バスドラのプレイも結構思い通りに出来る、ドドン・ドッドン今までなかなか出来なかったフレーズが・・・我輩にしては大革命だ、自信消失も回復の兆し。チョットお休みしていた活動を再開、堅苦しいことは考えずに音を楽しむつもりでJazzを演ろう、キットお客さんも楽しく聞いてくれるだろうと思いながら・・・・(今さらテクニックを磨くなんてなかなか出来ない、自分の出来る範囲でいかに良い音楽を演るか、 グルーブしてアグレッシブに楽しくをモットーに)。

『車椅子で良くドラム叩けるネー』『手足が不自由なのにドラム叩けるネー』と言われても気にならなくなった

・・・・・・・どうしてか?、その通り手足が不自由だから。

自分のありのままの姿でこれからも音楽を演っていこう、ギャラリーがどう評価してくれるかが楽しみだ・・・

 

2004年夏、ひょんなことからテレビ信州の方と知り合いになり『24時間テレビ』に出演しないかとお誘いがあり、自分のグループでイベントに花を飾ればという程度でお引き受けした。が・が・が・が・ナント

pro.musicianとの共演って話になってしまった、以前なら喜んでウン・ウン・ウン≠チて事だったが、脳梗塞を患い右手に違和感があり思う存分出来なかったのでチョト躊躇したが、「車椅子ドラマー夢の共演」なんてお題目をつけてもらってローカルではあるがテレビ放映された。

Tp:原朋直氏 Pf:ユキアリマサ氏  Bs:高瀬裕氏との演奏(曲目:Milston・Lament)

 

皆さんからお褒めのお言葉を頂き、手の事を気にしないで自分のstyleで演ってくださいと激励も頂きましたが、やはり自分では納得がいかなくて、この年でJazzDrummerとしては現役を引退した。

その後は身体の運動のために、rehabilitationでDrumを叩く程度で音楽活動は殆んど皆無の状態・・・

 

好きな事を長いことやらせてもらった事に感謝・感謝

 

誕生 小学校 中学校 高校 宮使い 退職後 音楽の事