第二の人生の心算が?ぇッおやまぁ〜〜

あの時、早期退職になると言われてその気になって、いざ退職届を出したら『間違いでしたそうではありません、ごめんなさい』と言われた時、『それじゃ〜辞めるのを止めます』と何故言えなかったのか、今更悔いてしょうがないけどあれからオイラの人生狂い始めた・・・これも今流行りの自己責任

身体の動きもやや鈍くなり、これから別の就職はチョコット難しいと考え、在宅業務でどこか無いかと職安で相談したものの、まだまだこの時期には中々無かったが、4週に1度の認定日には必ず出向き失業保険で何とか生活の足しにして就職活動。

まずパソコンを覚えなければならない、宮使い時代はコンピュータシステム開発の仕事だったのでパソコンに対しての違和感は無かったが、以前はソフトを作る側、今度はソフトを使って如何にパソコンを扱うかとまるっきり逆の状態で色々と覚えなければならないことがあり、パソコン教室などにも足を運んだが、覚えるより慣れろ≠フ如く時間が有ればパソコンに向き合っていた。

そんな頃、ボランティア団体で、お年寄り・障害者を相手にパソコンを教えている方を、友人から紹介してもらい、公民館などでパソコン・サポーターとして教えたり・教わったりしてパソコンに親しんで行った。

パソコン・サポーターとは“何ぞや”・・・パソコン講習会で講師が説明した事に対し解らない事や聞き逃した事などを、生徒(と言って言いのか教わる方)さん5人位をサポーター1人で受け持ち、懇切丁寧にアドバイスするような事、、、オイラも知らないことが多く、講師の話を耳を研ぎ澄まして聴き自分のものにし、たまたま生徒さんに質問されれば今聞いた事を、即教えられることで一層理解が深まり一石二鳥の経験であった。

2001年5月末日で意気揚々と退職はしたものの、形では定年退職、実際は自己都合の退職と言う事で国産普通自動車1台も買えない位の退職金で20数年間の最後のお仕事を終了・・・

 

宮使いを辞めたら髭を生やしたい・髭を生やしたい≠ニ願望が有ったので、早速鼻の下を髭剃りせず伸ばし始め、毎日鏡を見てはニヤニヤと半月ほどで何とかサマニになってきた、頭はだいぶ白髪だったが、まっ・まさか髭までこんなに白かったかと思う位、黒髭交じりの塩ゴマ髭≠セった。

まっこんな感じであって自分ではカナリご満悦、知り合いからも

結構いいじゃぁ〜〜ん∞似合っているヨ≠ネ〜〜んてオダテラレその気になっていました、、、、、しかし女房からは大顰蹙!!『ジジィ〜』だって

憧れの髭を蓄え気分はミュージッシャン、月1回ペースで演奏ができズージャ活動≠熄調、、、車椅子Drummer此処に有りってか?

Aggression(唯一のオイラのピアノTRIO)・Over50s(中年のピアノTRIO+VOCAL)・金原グループ(アルトサックス+ピアノTRIO+VOCAL)・女鳥羽川ジャスクィンテット(結構若いミュージシャン)と色んなグループ の人とセッションが出来、また久し振りのおじコン≠ノも参加出来かなり楽しい音楽活動が出来た・・・そんなこんなで、退職後の半年は『あしたに向かって希望のある充実した』日々の様な気がしたが?

 

2002年になってからは、自分でもホームページを作りたいと思い、それなりのソフトを揃えデジカメも買い暇あるごとにパソコンに向かい、車で出かけては写真を撮るなど退職後の一時の気ままな時間をを満喫していた3月ごろには念願のみっチャンのホームページ≠ェ完成しWebデビューをしたが本当に初歩的なホームページで自慢の出来る物ではなかったが達成感は感じられた。

7月からは失業保険も給付も終わり、仕事も中々見つからない状態で完全に女房の扶養家族になってしまった、たまたま“IT・IT”と言われていた時期で公民館などがパソコン講習会をやっていて

パソコン・サポーターとして週に2回位は仕事では無いがお仕事らしい気分で時間を費やし、余り暗くもならずにその割には充実していた。パソコン講習会の講師が社会福祉協議会のホームページに関わっていた関係で、『広報、社協まつもと』のホームページ作成のお手伝いが出来る様に成り、

社会福祉協議会にもチョコット縁が出来、毎週土曜日にボランティア相談ということで午後3時間ばかり社協へ出向く様になった・・・

 

Jazzも、ほぼ月1回のペースで演奏できホームグランドの赤いピアノ≠ネど色々な場所で色々なmusicianと楽しくジャムらして貰った、musicianホームページ検索で地元出身のDrummer中野祐次氏のホームページに出くわした、彼はオイラと同じM楽園(もとい学園)出身でジョージ大塚氏を師と仰ぎ、オイラがチョコット在籍していたキャバレー“S”でタイコを叩いていたと、何かしら共通点があり他人のように思えづメールを出してしまった、(話は予断だが、オイラ以外にM学園出身、キャバレー“S”後にお江戸に行ってプロになったDrummerが3人もいたなんって、おもろい不思議・・・オイラも行けばまた違う人生があったかも?・・・んっまぁ〜〜有り得ない話だけどっサ)

プロのDrummerが身近になったので、この辺のmusicianとの交流の積もりでメンバーを集めホームグランド赤いピアノ≠ナ8月に大ジャムセッションを行った、オイラも叩いたが殆ど彼に叩いて貰いプロDrummerとの共演を演出した積もりだが、共演したmusicianにチョコットでも刺激を受けて貰えたらなぁ〜と偉そうな事を考えた老婆心のオイラでした。

車もAutomatic車で左足でアクセル・ブレーキペダルを扱っていましたが、ボチボチ足の動きが鈍くなってきたのかブレーキを踏んでからアクセルペダルに戻すタイミングが遅くなってきたので、安全のためにと手動運転装置を10月ごろ着け、アクセルは手・ブレーキは足でと運転するようになったが、片手ハンドルでおまけに手に力が余り無いと、山道の運転はチョッピリ自信がなく段々としなくなってきてしまった、、、、、車の運転に対してはチコット後退・残念・無念

 

2003年、パソコン講習会のサポーター、社協のボランティア相談・ホームページ作成、其れなりに充実した日々が続いていた。

音楽も月一の割合でJazzが演れた、美術館の某レストランで食事をしながらJazzを聴いて貰うデイナー形式で演奏する機会が多くなってきた、音楽は楽しんで演れば聴いてくれる人達も楽しんでくれるはずと思って演奏していたが、本当にお客さんが楽しんでいるのかなぁ〜〜と疑問が出始めた

オイラのタイコは煩いのか、ちゃんとリズムサポートしているのか、ペチャクリ(MC)はお客様を引き付ける話になっているのかと自問自答しながら演奏する毎にDilemma・Dilemma・・・

でも念願の長野Groovy¥o演、Over50sでライブが演れた、これは大勢のお役さまが聴きにきて貰いオイラ達もお客様も楽しめたので、イライラしていたDilemmaが少々無くなった有意義なライブだった、オーナーからも電話を頂き『良いねェ〜〜』とお褒めを頂きホット胸を撫で下ろした。

 

そんな日が続いた6月半ばの朝、右手が痺れている?肘でも打ったのかな、まっすぐに直るだろうと思っていたが痺れが取れない、なに?なんだろ?、、、どうしてその病院へ行ったか分からないが脳外科医院で診断・検査の結果、『脳梗塞です入院ですね』『何時するんですか』『今すぐです』

おっとっと・ま・ま・まさかの出来事、こんな大事になるとは・・・毎日2・3本の点滴、手・身体のリハビリで約2週間の入院、病院食≠ヘ美味くないと思っていたが、塩分控えめでしっかりカロリー計算された朝・昼・晩と中々まいう〜≠ネ食事で、お陰様で少し痩せる事が出来た、嬉し〜い・・・

痺れは残っていたもののこれと言った後遺症が出なかったので軽い方だったかも、その後「西城秀樹氏」や「長島茂雄氏」が同じ病でと、またまたオイラは時代のトップを行ってしまった・・・はっ?

退院後は月に一度の病院参り、末梢血管を広げたり・血液の流れを良くしたり・末梢神経の働きを助け手足の痺れなどを改善したり・との4種類の薬を頂いたり、診断してもらったりと月一恒例行事となってしもうた、、、今まで医者は骨折などの怪我ばっかりだったがこんな事になろうとは・・・

トホッホッホ(なんか悪い事したんかな?なんか祟りでもあるんかいな?)

そんなこんなで、車の乗り降りが困難になり自分1人では外へは出にくくなりパソコン・サポーター等の仕事らしきものも出来なくなり、家にいる時間が殆どに成り在宅で出来る少々のホームページ作成・更新の仕事らしきものだけになってしもう〜〜た・・・ヤバイ・ばいや!・・・ジャッジャッジャ〜ン

 

右手の痺れでイライラしながらも、何時かは和らぐだろうとタイコの練習に励んでいたが一向に和らがない、今までも腕の上がりはあまり良くなかったがポストポリオ症候群【ポリオ(脊髄性小児マヒ)発症から数十年後に再び筋力低下などが現れる病気】の影響も有るか如何かは分からないが、腕を上げて居られ無くなってきている、当然タイコにも影響が、、、トップシンバルでリズムキープしている時はフロアータムに手首をのせて支えて結構イケるけれど、soloとなるとスネア・タムetcと運び返しがチョコットむず〜〜い

そんなこんなで音楽活動はグ〜ンと控えめに!

ズ〜〜ト演ろう・演ろうとアプローチしていた新進気鋭のピアノニストから

『今年はガンガン演りたいと思いますので、宜しくお願いしま〜す』とありがた〜〜い言葉が、、、

例の病気の事は全てシークレットだったので、嬉しいやら困ったやら複雑な心境で2004年が始まったが、soloはなるべく演らない様にバッキングで楽しめる演奏方法に変えて行った、もうチョッと早くその気になってくれていたら思う存分Playが出来たのにと、、、また贅沢な事を言って!


手が思うように動かなくなってきて音楽活動も消極的になってきたが、ハイライトは何といっても某テレビ局の24時間テレビ≠ナTrumpeter原朋直氏と共演した事だった、何故そんな夢みたいなことが実現したのか?・・・奥志賀高原で原朋直グループ・ライブの事でたまたま某テレビ局制作の方と知り合いに成り、オイラの演奏を聴に来てくれたりした。話の中で『以前にも24時間テレビ≠フアトラクションで演奏させて貰った事があったので、また演奏させて下さい』なぁ〜〜んて軽い感じで話をしたが、その方の企画で原氏も了解との事で車椅子ドラマー、プロトランペッターとの夢の共演≠ネんってお題目でローカルでは有ったがテレビ放映と合いなりました、前日のリハーサルと当日の本番と、オイラもpromusicianと同じような気分での夢のような2日間トッテモ良い冥途の土産が出来たわなって感じ、、、演奏も手の違和感はあったがまぁ〜まぁ〜の出来栄えと行ったところでお世辞かもしれないが、お褒めの言葉を頂き感無量、久方ぶりのproとの共演でした。

前日のリハーサル風景

夢の共演者の方々と

本番風景

その上そのテレビ局で信旬な人、ハンディ乗り越え夢共演≠ネんってドキュメント番組まで作って頂きその時の様子とか、共演された方々のインタビューなども放映され、なにげに照れくささも!

何回かライブは演って見たものの手の違和感は拭えず、演奏後の脱力感と言おうか虚しさと言おうか寂しい感が付きまとい、段々と演奏は逃のいて行ってしまった・・・車椅子Drummerの危機!

 

段々と・段々と湿っぽい話題ばっかしになってきてしまったが、それを払拭するような明るい話題

パンパカパ〜〜・パッパッパ・パッパラパ〜〜・そ〜〜なんです、車の乗り降りが『バイヤ(大変)』になって来たオイラは車の運転も余りしなくなり家に閉篭もりがちになってきた、そんなオイラにTちゃんが連れて行ってくれるWednesday・日帰りドライブ≠ィ誘いが待ち遠しく成って来てしもうた

ドライブと言えば今までのオイラは、本当に車の乗っているだけ、精々食事かトイレ位が降りるだけだったが、真っ赤なポルシェ(還暦色の電動車椅子)が来てからは、散歩と言おうか散策と言おうか、車を降りてからの行動が楽しくなって範囲が広くなってきた・・・

Tちゃんはオイラと違い博学、オイラだけではまず行かない様な高尚なところへ連れて行ってくれた。

例えば、美術館めぐり山梨県立美術館でミレーの「種をまく人」などを鑑賞し・長野県信濃美術館・東山魁夷美術館で日本画の情緒に浸り、長野県立歴史館・森将軍塚歴史館で長野県のたどった歴史のモニュメントを見物し、美ヶ原高原美術館で現代彫刻などを見て心の洗濯を・・・

 

美術館巡り(諏訪編)

まず始めに北沢美術館、ガラス工芸の巨匠、エミール・ガレのガラスの世界没後100周年記念展

薔薇をテーマとする花瓶・ランプ・香水瓶などが薄暗い部屋で、スポットに照らされて高価な雰囲気が一杯・・・ガラス工芸といっても、セラミックのような感じすらした・・・・・未熟な我輩の感想

別室展示場には美術館所蔵の現代日本画名作展、東山魁夷(この方の名前しか判らなかったが)他の作品が明るい展示室に並んでいた、、、、子供の頃の夢では、絵描きになろうと思っていたが、今目の前の素晴しい作品を見ていても感受性がなくなっている・・・・

真っ赤なポルシェ(電動車椅子)があるので、諏訪湖の畔をぶらぶらと随分綺麗になった諏訪湖

週末では無いのでユッタリ散歩ジャナクテ散車?・・・・・電動車椅子になってから外をブラブラが多くなったTチャンと昼飯を食べ午後は、原田泰治美術館、彼も我輩よりは軽いがポリオにかかったらしい、、、おい等もズ〜〜 ト絵を続けていたら『原田泰治さま』のようなアーティストになれたかも

な〜んちゃって思いながら、作品を嘗める様に拝見させて貰った、屋根の瓦が一枚一枚描かれている、一瞬「山下清」の貼り絵を 思わせるような細かさ、ほのぼのとして風景で気持ちを和わせる

原田泰治美術館庭からの諏訪湖(パノラマ写真に加工)

 

碓氷峠鉄道文化村

オイラが鉄道大好きを知っていて真っ先に連れて行って貰ったところ

信越線アブト式電気機関車で碓氷峠乗り越えた、横川駅の機関庫の跡地に出来た鉄道博物館、今まで活動していた電気機関車などが幾つも展示されているらしい、鉄道マニアの我輩は心ウキウキ、ナビ付き・ETC付きのTちゃんの車なのに、何故か優越感に浸っていた、高速のインター入口・出口でもノンストップ

上信越道長野県、群馬県境の八風山トンネルを抜けると山の姿が別世界、長野県側の山の姿は割合なだらか、群馬県側は海抜が低い割には岩だらけの山が、雨の浸食か風のせいか山の頂上は岩がゴツゴツ 、雨でも降って霧が巻いていればまるで中国の水墨画みたいな感じでチョト薄気味悪いような山々・・・

約2時間位で『碓氷峠鉄道文化村』に到着、障害者手帳で付添い人と本人で割引、今まで入場券では使用しなかったが今回初めて使用した、年と共にこんな事が違和感なく出来るようになった自分を????

広い園内、手漕ぎだったら“イヤに成っちゃう”ところだが電動車椅子が大いに役立った、自身で好きな所に楽に行ける、坂でも人の手を借りることなく登れる、こう云う場所での初体験 ・・・ラクチン

お目当ての機関車類が展示してある場所に一直線、真近で見る機関車のでかい事・デカイコト

蒸気機関車デコイチ(D51)が1台だけあった、後は電気機関車・ディーゼル機関車・客車等が十数種類、昔蒸気機関車の模型をボール紙で作った頃を思い出した、本で細部にわたり調べたが今現物を目の前で見て『あそこはこうだったんだ』と改めて納得、何か嬉しくなってしもうた

最終的には京都の梅小路蒸気機関車館に行って蒸気機関車を目の前で堪能して見たいが・・・?

 

天文台野辺山宇宙電波観測所もオイラだけでは行かない想像もつかないショバ

八ヶ岳の南側、小淵沢から佐久へ抜ける道、暑いから高原をドライブって事で中央道へ乗り小淵沢まで、清里めがけて高原道路を涼しい風を浴びながら、途中八ヶ岳牧場でチョト休憩、広い牧場には牛と羊がのんびりと、ルービでも飲みながら一日ぼけーとしていたら気持ちが良いだろな〜〜と思いつつ、清里・清里と人気らしいが、年を召して来た我輩にはチョト場違いな感じ、町の中をサラーット通り抜け野辺山へ、今日は七夕ってぇ〜〜訳では無いが、此処には『天文台野辺山宇宙電波観測所』があるんだ、あのドデカイパラボラアンテナ、理科系が大好きなTチャンが一緒だ是非とも見ようと、何かそこに宇宙人がいるよ うな雰囲気昼間でもそんな気がするんだから、夜なんか宇宙人と握手でも出来そうな、な〜〜んて思ったりして・・・

それにしても広い・広〜〜イ敷地、職員の人たちは自動車で敷地内を移動している、電動車椅子エラク役に立った涼しい高原を下り、佐久インターへ温度が急に上がり暑いアツイ、車中のエアコンフル回転・・・

そのほか、春には千曲市のチューリップ畑で花に囲まれ、初夏には 野麦峠越をして高山屋台会館を見学し、 木曽赤沢美林で森林浴をし、 戸隠森林植物園で水芭蕉を見て、秋には 妻籠宿で歴史ある町並みを散策し、 小諸懐古園で紅葉を堪能し、「牛に引かれて善光寺参り」では無いが善光寺参道を散歩(散車?)と観光気分にも浸れ、本当にあ りがたい昨今・・・Tチャン感謝・感謝

 

誕生 小学校 中学校 高校 宮使い 退職後 音楽の事